中国生活 1988年-1989年

  当時書いたまとめ-2 中国社会

 当時まだ、文革が終わり、改革開放政策が始まってまだ月日は浅かった。

 外国人が比較的自由に国内旅行ができるようになったばかりであった。例えば、北京から離れて旅行に行くなら、公安で証明書を発行してもらわないと駄目だった。外国人に開放されている都市もかなり限られていた。私が留学に行く前の87年頃からそれらの規制はかなり緩和された。

 以前のブログにも書いたが、当時は「万元戸」という言葉が流行っていた。年の収入が1万元を超える人たちである。改革開放政策の恩恵を受け、自由に自分の作った農作物、漁業であれば海鮮類を売れる地域の農民、漁民は万元戸になった。町で個人で物を売っている人たちも万元戸、個人経営の床屋(美容院)のオーナーもそうだ。当時は、基本オーナー一人で床屋を切り盛りしていた。

 個人商店は、営業許可証が必要であるが、失業していないとそれらの許可証はもらえなかった。その為、学歴がなく失業している者、犯罪を犯して、失業している者など真っ先に商売を始めて、お金持ちになったのだ。学生時代から真面目に勉強して、真面目に働いていた人は損をした。特に知識人と呼ばれる、医者、先生の待遇は一番悪かった。

 普通の医者、学校の先生で70-80元、北京大学の教授でも250元。学校派遣で日本の大学で中国語や中国関連の授業をしている先生は、月8万円程度もらえていた。日本の大学は、その先生が所属する大学に30-40万円は払っていたそうだ。

 町中の商店の売り子は150元程度。学校の寮の掃除をしている人は、60元。タクシーの運転手は500元、個人タクシーは2000元前後。邓小平が読むような論文を書いている人でも70元。逆に外国人に中国語を教えている大学生が300元も稼いでいたりする。

 中国トップの邓小平でも170元くらいの給料と言われていた。しかし、幹部用のスーパーがあり、外国産の高級牛肉でも1-2元で買えるそうだ。

(88年 燕京ビール工場見学時の写真)

(88年 縫製工場見学時の写真)

中国生活30年

1988年より現在まで、30年近く中国で生活。当時の日記、写真などを基に現在までの中国の変化を紹介するブログ。

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