中国生活 1991年 1991年3月14日(木) 明日CA925で帰国する。日本に帰り24日に大学の卒業式、4月1日からは社会人である。88年大学3年生が終わり、大学を休学して北京へ留学した。それで人生の方向が一変した。 今回、再度天安門広場を訪れた。90年1月に戻った時は、事件の傷跡が残っていたが、今回は北京でのアジアオリンピックを経ていたので、事件の傷跡は完全に消去されて綺麗に整備されていた。 90年に撮影した同じ場所を撮影していれば傷跡がなくなった変化が見えたが、残念ながら同じ場所を撮影していなかった。2017.07.13 09:45中国1991年
中国生活 1991年1991年3月10日(日)-4 一人息子が北京の大学に通っているので、今は2人で暮らしている。蘇州では息子夫婦と一緒に住み、子供もいたので、とても賑やかであった。2017.07.12 12:52中国1991年
中国生活 1991年 1991年3月10日(日)-3 上海や蘇州(華南地区)の農村は集落でも各家毎の塀はない。しかし、北京(華北地区)の農村は一軒毎に塀で囲まれ門に鍵をかける。その為、蘇州のように近所の子供達が遊んでいる写真を撮れなかった。2017.07.11 23:30中国1991年
中国生活 1991年 1991年3月10日(日)-2 蘇州(華東地区)と北京(華北地区)の農村の雰囲気は全く違う。列車に乗って移動していると家の構造が変わっていく事に気づく。2017.07.11 10:25中国1991年
中国生活 1991年 1991年3月10日(日) 2月25日北京に戻り、また語言の友誼楼に宿泊。3月7日から9日まで2泊3日で北京郊外の「口頭村」へ行った。学校近くの「清華駅」より鈍行で2時間半「北宅駅」まで3元であった。留学当時、その駅の存在は知っていたが、利用者がいるのか疑問に思っていた路線を利用するとは想像もしていなかった。日本の大学で知り合った北京大学教授の生徒の実家であった。2017.07.10 23:00中国1991年
中国生活 1991年 1991年2月15日-7 下写真は、1週間滞在した時のある日の食事と厨房。 十年後ここを訪れるとカニの養殖と真珠の養殖を行う農家が増えていた。 この農村地区に向かう為に降りるバス停の大通り側には、養殖真珠製品などを売るショッピング街が出来ていた。2017.07.10 10:25中国1991年
中国生活 1991年 1991年2月15日-5 貧富の差、2階建ての家と平屋に住んでいる事でその差は現れる。子供同士は純真であるが、着る物でもその差は出てしまう。2017.07.08 08:12中国1991年
中国生活 1991年 1991年2月15日-4 王家、息子夫婦がこの家の大黒柱。息子は、通常「近くの郷鎮企業」で働く、奥さんも。農作業は繁忙期のみ行う。郷鎮企業で働かない人は、家で内職を行う。 彼の働く郷鎮企業は十年後には、車の部品を製造。企業ごと海南島へ行き、「海馬汽車」の車部品製造を手掛けるまでに成長した。2017.07.08 06:40中国1991年
中国生活 1991年 1991年2月15日-3 2月10日(日)お世話になった家の娘さんの結婚式(嫁入り)に出会えた。(下写真-新郎が新婦を迎えにやって来た)2017.07.08 00:20中国1991年
中国生活 1991年 1991年2月15日-2 皆さんは、中国で「馬桶」を使用したことはあるだろうか?ここ数年で初めて中国へ行った人だと見た事も、聞いた事もない人が多いかもしれません。上海でも2010年以前なら、上海市内(浦西の外滩近く)の昔ながらの家が密集する所では水洗トイレがなく、「馬桶」朝洗っている、または天日干ししている光景が見られた。朝になると共同トイレに中身を捨てに行き、中を掃除、そして天日干し、午後回収。それが日課であった。 私が初めて使ったのが、この蘇州の農家。1度使えば慣れるが、、、 私は客人なので、自分専用を貸してくれた。やはり、午前中に回収されて、午後戻って来ていた。それが戻らない時に、用を足したくなると広大な農地の隅で、、、、2017.07.07 10:56中国1991年