中国生活 1988年-1989年 88年-89年の写真288年購入の雑誌「現代家族」、定価1.05元写真は、表紙、背表紙、表紙裏の広告、背表紙裏の広告2017.06.26 11:51中国1988-89年
中国生活 1988年-1989年 そろそろ1988年-1989年、この1年間に関する内容は終わろうと思います。また後日、年代が移ってから何か思い出すことがあれば追記致します。 これより88年に撮影した物でまだ載せていない分を展開致します。88年-89年の写真-1(89年1月終わり、旧正月前撮影の北京空港)2017.06.26 11:41中国1988-89年
中国生活 1988年-1989年 当時書いたまとめ-3 戦争の傷跡 私が留学して間もない頃、万里の長城で空き缶を集めるお爺さんに出逢った。我々がジュースを飲んでいると「かん、かん」と言って近寄って来た。我々は興味半分でなぜ日本語が話せるのか尋ねた。その人は中国語ではなく、ゆっくりと日本語を思い出しながら、昔日本人に習わせられたと語った。 またそれから1週間後に土産物屋に行った時も日本語で話しかけてくる老人がいたので、反射的になぜ日本語が話せるか聞いてしまった。その老人も戦時中に日本語を習わせられたと言っていた。 それ以降はそのような老人に出逢っても聞かないようにした。しかし、それ以降何度か列車旅などでそのような人たちと知り合いになったが、彼らは自分から戦争時に習...2017.06.26 05:40中国1988-89年
中国生活 1988年-1989年 当時書いたまとめ-2 中国社会 当時まだ、文革が終わり、改革開放政策が始まってまだ月日は浅かった。 外国人が比較的自由に国内旅行ができるようになったばかりであった。例えば、北京から離れて旅行に行くなら、公安で証明書を発行してもらわないと駄目だった。外国人に開放されている都市もかなり限られていた。私が留学に行く前の87年頃からそれらの規制はかなり緩和された。 以前のブログにも書いたが、当時は「万元戸」という言葉が流行っていた。年の収入が1万元を超える人たちである。改革開放政策の恩恵を受け、自由に自分の作った農作物、漁業であれば海鮮類を売れる地域の農民、漁民は万元戸になった。町で個人で物を売っている人たちも万元戸、個人経営の床屋(美...2017.06.25 11:30中国1988-89年
中国生活 1988年-1989年 10カ月の留学生活が終わり、中国で経験、感じた事を当時まとめていた。その中より数回に分けて、紹介します。現在も同じような事は省き、当時の状況を反映する事を写真も含めて記します。 まず、現在との大きな違いは住居であろう。先生に限らず、一般の人たちもそうであるが、不動産市場はないので、基本は勤め先から分け与えられる住まいである。 自分が留学した語言学院では、子供がいて、長年勤務していると2LDK。同じ子供がいても、1Kの部屋で暮らしている先生もいた。住宅難でもあったので、独身の若い先生は、留学生寮に住んでいる先生もいた。 中国の学生達はすべて寮住まい。6人部屋、住んでいる棟にはシャワーがないので、学校内の共同シャワー室まで歩いてく。皆...2017.06.25 08:05中国1988-89年
中国生活 1988年-1989年 88年10月中旬、上海カニを食べる為に、上海へ。ホテルを探すのに苦労した。多くの所で「没有」と言われ最後は、上海のYMCAに泊まれた。 89年2月日本への帰国は、上海からであった。以下の写真は、88年、89年の撮影。南京路とバンドの町並みがメイン。この頃の南京路は歩行者天国にはなっていない。狭い歩行者用の道を人に押されながら歩いていた。 (下記4枚は南京路)2017.06.24 04:41中国1988-89年